潰れた檸檬

自傷しなくても傷だらけ

だるだるスピリット

 電車で出発を待っていたら男子高校生3人(A,B,Cとする)が乗ってきた。仲良さそうなので恐らく3人組で座りたかったのかもしれない。しかし座席が少なかったためAとB,Cで両側に分けられた。Aは赤ちゃんを持った母親の隣に座った。

 

 赤ちゃんがAを見つめてきた。

「おい、赤ちゃんがAを見つめているぞ。」

「A挨拶してやれよ!」

 笑いながらBとCがAを茶化すとAは照れ笑いと苦笑いの中間のような笑顔で赤ちゃんに会釈して手を振った。いわゆるダル絡みである。その後は赤ちゃんに何かするわけでもなく3人で談笑していた。

 

 3人は同じ駅で降りた。そのうちAがまたねと赤ちゃんに手を振った。すると、赤ちゃんが泣き出した。あの一瞬の時間で赤ちゃんは別れを惜しんだのだろうか。そうだとしたら、ダル絡みが一人の人間を幸せにしたのである。

 

「ダルい」という言葉は「ヤバい」と同様に意味が広がる単語である。めんどくさいのかつまんないのか、とりあえずどの意味にしてもマイナスの意味にしかならなさそうだ。

 

 でもこのダル絡みが一人の人間に幸福を与えたのならばこれはダルいの定義には当てはまらないのかもしれない。

 

 ダルいは幸福を与える。みなさんは前にこんなツイートをしたのを覚えているだろうか。

https://twitter.com/BokenshoJo/status/1045601413751955456?s=19

 これは、ちょうど上記が起こった日の次の日あたりにツイートした。上記のこともあるが、もう一つダルいの生み出す幸福があるのだ。

 

 親友の話だ。親友は大学生で、クラスが同じになることが多いからクラス外でもダル絡みを要求されるらしい。個人的には、ダル絡みをする相手がいないから羨ましいのだけど親友的には一人の時間が欲しかったりもう高校生じゃないという意味で「ダルい」と言い放った。

 

 別にその親友にダル絡み作用の幸福を認識させたい訳では無い。ただ私は昔からあまりダル絡みをする相手がいなかったし、それが今もいないから大学に通っていても通っている感覚を失いそうになるのだ。ダル絡みのやり方がわからない...

 

 ダル絡みのやり方がわからないから、どこに行っても浮いてしまう。何を話せばいいのか、どうやって人と仲良くすればいいのかわからない。そしてそれは孤立へ導く。孤立だけならいいが、挙動不審らしく嘲笑の対象になり、社会を恨む...

 

 だから、ダル絡みできること自体幸福の象徴なのだ。ダル絡みをダルいと感じることこそ幸福で、それはもうダルいという意味を超えた言葉と為すだろう。