潰れた檸檬

自傷しなくても傷だらけ

ギフト

 家族旅行で神戸に行った。父親は単身赴任なので、久々の再会というイベントも兼ねていた。そこで奮発した父親が「神戸牛のステーキを食べに行こう」と言い出し、その店に入った。

 

 神戸牛の高級店だったため、また食べ盛りな私と妹はランクが一番下の多い量のメニューを頼むのが必然だった。勿論両親はランクが上のメニューを頼んでいた。

 

 注文した後私はトイレに行った。戻ってしばらくしたらウェイターが来て、いきなり親が肉寿司を一貫頼んだ。そして戻った私を親が見てもう一貫頼んだ。どういうことか聞いたら、妹は私がいない間に肉寿司のメニューを見て食べたいと親に言ったらしい。

 

 勿論それは美味しかった。この上なく。

 

 しかし、同時に妹に負けたと思った。

 

 まず、肉寿司を頼むという発想がなかった。勿論食べられるものなら食べたかったが、高級店でステーキを頼んでいるのにその上肉寿司を頼むという選択肢は端からなかった。遠慮とか謙虚とかそういう問題ではなく、そもそも肉寿司を頼むという選択肢が脳内で最初から除外されているのだ。

 

 しかし妹は頼んだ。親だから良いだろうという考え方なのだろうか。その発想ができる妹が羨ましかった。そして、私は妹に負けたと思った。

 

***

 

 少し前なら私は妹のことを無神経だのバカだの言っただろう。しかし、仮に私にたくさんの時間が与えられていても上記のような選択肢は取らなかったに違いない。つまり、妹のあの発言は無神経や無思考によるものではなく素で考えた結果である。そう思うと、その行為は単純なものというより妹が生まれてから今までにおいて蓄積してきた「生」の結果なのである。 要は、あの発言は妹の才能なのだ。

 

 他にも似たようなことがあった。これはツイートしたが、私がサークルの新歓のポスターを作ったにも関わらず新歓当日になってそれまで非協力的だった先輩がいきなり新しいポスターを作ってきた。当日になってやる気が湧いたらしい。ちょうど新元号の令和が発表された時期だったので、それに関連したギャグセンスの高いポスター。一方私のポスターは、サークルの雰囲気には合ってるが色が地味なポスター...

 

 先輩が作ったポスターがLINEで共有された時はみんな絶賛していた。私はポスターを数週間前に作ったが反応が薄かった。別に、新歓なんてやりたがる人はうちの代(三年の代)しかいないから仕方ないよね、と思っていたのに。

 

 先輩が作ったポスターが絶賛されている流れに水を差すわけにはいかなかったので黙っていたら、私のポスターの価値がなくなったらしい。そして、新歓の時私のポスターは別の先輩が裏紙として(主にサークルの説明などに)使っていた。 

 

 実際この時はさすがに二人の先輩に対して無神経だって怒ってしまった。ポスター作った先輩は頭が良かったからちゃんと怒ったけど、もう一人の先輩は頭が良くなかったから 言わなかった。元々嫌いだったし。

 

 この事象も、今考えれば彼らなりの決断だったのかもしれない。無神経ではあるけどだからと言って無神経さを指摘したところで治すような人ではないし、治したら彼らの魅力がなくなってしまう可能性もある。そして、2人とも自分の大学にいるから極端なバカでは無い、となると彼らも彼らで彼らなりに思考を働かせた結果なのだ。私の存在を差し置いた上でそういう行動ができるのだ。つまり、彼らのあの行動は才能なのだ。

 

 無神経さに関しては自分自身にも当てはまるし、むしろ当てはまる行動をしている方だと思う。

 

 妹の発言に対して無神経ではなく才能として認めることができたこと、それは一種のギフトであること、それに気づくことができたから、肉寿司のギフトが目の前に現れたのかもしれない。最高のギフトだ。