潰れた檸檬

自傷しなくても傷だらけ

義務・アンド・テイク

 振り返ってもとにかく友人が少なかった人生だったと思う。それもそのはずで、あんまり本性というか本心を他人に打ち明けるのが得意ではなかったからだ。また、スクールカーストも高くなかったので、自分と仲良くなることで相手の立場的にもマズい展開になるという勝手な妄想までもしたのである。

 

 Twitterを始めてから、幸運なことに遊びや出会いに誘われることが増えた。それ自体は本当に嬉しい。しかし、その嬉しさにある考えさせられるエピソードが纏わる。

 

 

 小学生の同期にダイチくんという子がいた。彼は成績が良くなく、またネグレクト家庭なので、シラミやノーパンなど清潔感があるとは言えない(他の同期からはそういう理由で嫌われていた)。 ついでに、自分の体型や発言をイジるため私にとっても好きな対象ではなかった。

 

 ある日、彼を含む同期グループで私の地元の公園で遊んでいたらしい。その時、彼は私を呼ぼうとして玄関のインターホンを鳴らしたそうだ。私はちょうど不在だったのだが、その時にいた親がそのことについて嬉々と語っていた。

 

「良かったな冒女!ダイチくんが呼んでくれたぞ!大切にしな!感謝した方が良いぞ!」

 

 正直今考えてみれば人間の資源が学校しか無かっただけで、別に彼と仲良くしたいわけではなかった。親は「うちの子と遊んでくれるなんて!」とでも思ったのだろう。しかし今になって振り返ってみると「お前と遊んでやってるんだから感謝しろ(=お前なんて友人ができるだけありがたいと思え)」と言ってるような気がしてならなかった。一時期はそれに同調していた時期もあったが、よくよく考えるとおかしな話だ。

 

 ただ当時は実際親の言うことに従っていたから、「自分と仲良くすることは相手にとって損でしかない」みたいな価値観を植え付けられてしまった。今は堂々と「こっちにも選ぶ権利がある」と主張できるのだが、この価値観が拭うことはしばらくなかった。

 

 それからと言うものの、高校になっても友人を選ぶという感覚がなかった。友人は、「同じコミュニティの中でもギリ話せる人間」という定義のままだった。Twitterを始めて徐々にその定義からは外れることになる。それはそれで良かった。

 

 しかし弊害が生じた。それは、私が仲良くしたいと思っている友人の前でどう振る舞えば良いのかわからないということだった。つまり、友人の前で果たすべき義務がわからない。「何か面白いこと言わなきゃ」「考えて発言しないと見切られる」みたいなプレッシャーが常に付きまとう。

 

 だから酒を介してでしか会えない悲しい生き物になってしまった。

 

 酒があると、お互い意識を歪められるから本心のままに言ってもウケることが多い。素面だと本当に分からなくなってしまう。昔付き合っていた恋人にも「居てくれるだけでいい」と言われたことがあったが、結局その正体が分からなくて破局してしまった。

 

 友人の定義が世間と違うことも最近知った。考え方が面白いか近いかで友人を決めているが、一緒に過ごした時間が長ければ自然と友人という価値観もあるらしい。しかし実感が湧かない。年数だけ重ねても、話してて生産性がなかったら自然と途切れていく。部活の同期は、知り合ってから6年以上経つが今は一切連絡をしていない。 

 

 だがもし友人、友人でなくても特定の人間との交際を続かせるために何かしらの義務が生じるとなると、私はどういった義務を果たすべきなのか。それすらわからないまま24という年齢になってしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

いややっぱりまとまらないから2月11日に書く記事はここまで。