潰れた檸檬

自傷しなくても傷だらけ

ぺクト

 人類が仮に平和に近づこうと思うのなら、「他人に期待しないこと」だと考えている。

 

 我々は他人に期待しすぎなのだ。個人の思惑が少しでも通らなかったからと言って「私はそうだと信じてたのに」「これを分からせれば改心するだろう」と平気で口にする。しかし、期待しないと愉しめない世の中である。何故なら生きていく上で感情がブレることは日常茶飯事で、そのブレから逃れる方法として期待が存在するからだ。そこそこ考える能力がある影響で、他人への期待を前提にしないとやっていけない。

 

 となると、これからは見ない能力というものが問われるものでないだろうか。

 

 私は昔、バイト先の上司と口論になった。

「なんで私をみんなの前でイジるんですか?もう意味がないのでやめにしましょうよ。」

上司「お前は俺へのリスペクトがないからだ。」

 でも、他人を尊敬したり期待するのは、一個人の傲慢でしかない。確かにその人と多く現場を経ているが、リスペクトは一切ない。何故なら、仕事はできるが思考があまりにも単純すぎて価値がないと感じたからである。しかし、それを言う訳にもいかない... 表にそれが出てしまったのは、私自身の技量の無さである。 

 

 期待するは英語でexpect、尊敬するはrespectである。この2つの単語に共通する-pectを調べてみた。

http://www.etn.co.jp/etymology/spect/

 これを正しい前提で再考すると、pectには"見る"という意味がある。そして、この単語がくっついている単語こそ見るという行為が含まれている。詳しくはリンク先を確認してほしい。expectだと、exは外という意味になる。つまり、外に見る→想定の範囲内を超える→期待する(ちょっと強引)になる。respectだと、reは再びという意味になるので、再び見る→何度も見る→手本にしている→尊敬する(やっぱり強引)になる。

 

  別の単語もそうである。例えばsuspectだと、susが下に見るという接頭辞である。そうなると、下に見る→正当性を考える→疑うという意味になる。てか、pectがつく単語自体強引な解釈は否めない。

 

 となると、pectが邪魔なのではないかと考えた。多様性が叫ばれている今、pectをしない能力、つまり見ないという能力が求められているのは皮肉である。ただそれをしないと生きていけない。何故なら、見ない方が良い現実や理不尽があなたの身の回りに渦巻きすぎているからである。