潰れた檸檬

自傷しなくても傷だらけ

忘れらんねえよ

 中学生の時、部活の同期(M)が白血病で亡くなった。

 

 Mは部活の中でもエリートの部類だった。水泳部の中でも、平泳ぎが得意だったのでリレーメンバーには早々に選出されていた。だからこそ、舐めた気持ちで入部した自分とはある程度の確執があった。

 

 白血病への闘病中、寄せ書きを部員で書くことになった。

 

 大抵の部員は、Mとの思い出があるので寄せ書きの際にスムーズに書けた。しかし、自分はMとは確執が多かったので上手く書けなかった。何とか絞り出したのが「頑張ってね!復帰したら平泳ぎ教えてね!」ぐらいしかなかった。当時は何とも思わなかったが、これを見た別の同期が「お前これはないだろ...」と言い放った。

 

 当時は分からなかったが、後々になってこの何とも言えない感情の正体が分かった。それを分からせたのは、小学校の教科書に載ってる「わすれられないおくりもの」である。

 

–Y‚ê‚ç‚ê‚È‚¢‘¡‚蕨

 

注:ごちゃごちゃになってるんですけどアクセスすればちゃんと見られます!

 

(また原典から引用するのをサボってしまった...)

 

 注目すべきなのは、このキツネである。アナグマが死んだ時に、キツネは「ネクタイが結べるようになりました。」と言った。

 

 これを過去の自分と重ねてしまった。ひとと過ごした時に楽しかった時間を共有するのがベースにある社会において、知識ありがとサンクスという態度は別に他でも代用できたのでは?と思った。自分はこのキツネと同じで、関わってる時に(自分にとって)新しい発見や知識を供給する存在を重宝する傾向がある。このキツネに対してある種の違和感を抱いた結果、過去の自分にも当てはまると再認識できた。実際、過去に「私のことを人間版Googleとしか思ってない」というクレームを他人伝えで聞いたことがあったので、共感性羞恥に近いものを感じた。このように文章じみて書くと違和感がないのだが、口語で話すと違和感は倍増する。何故なら、口語において感情を廃することができないからである。

 

 この作品を調べると、「いのちのたいせつさ」を説く教材として扱われている。しかし、スパイスとも言えるこのキツネの存在こそが作品を決定づけるものでは無いかと思われた。ぶっちゃけキツネなんていなくても良い存在だ。しかし、いることによって何らかの違和感を抱かせることが出来る。そういう意味で、この作品を教材に使ったことに関しては出版社のセンスを感じ取ることが出来た。そして自分が、こうやってひとをぞんざいに扱ってしまいがちなのも、忘れらんねえよ

 

【補足】

 実際Mに対して思い入れがなかった。Mが亡くなった2011年以降水泳部全体で毎年墓参りしているのだが、「墓参りダルくね?もう終わったことなのに毎年やんなきゃいけないの?」と言ったせいで部活内での支持が得られなくなった。この発言を受けとめた相手が「毎年集まることに意味がある。」と反論して以降、「もう水泳部のグループLINEから追い出していいよ」と言った。いや、言う前に自分から抜けたかもしれない。とにかくこのデリカシーのなさ、そして自覚できてるのに治さないし治せないところが自分をよく表現しているのだろう。