潰れた檸檬

自傷しなくても傷だらけ

BOON

 「読書感想文の書き方を教えないでいきなり書かせる教員」という批判ツイートがバズったのを見て、思い出したことがある。

 

 思えば読書感想文なんて小学校を卒業して以来書いてない。そもそもこんなの課されない以外は書く場面ないからね。例えば作文ならまだしも読書感想文なんて誰が得するんだろうね。またこんなこと言うと先日話題になった数学いらない問題みたいな別の議論に発展しそうなので、今日はその部分には触れない。

 

 通っていた小学校は公立だったが、都会のど真ん中というのもあり都内の御三家中学や後々西や都立青山高校などに行くいわゆるエリート(階層)が多いという特徴があった。一方で本来の公立らしい出来の悪い人も多かった。前者と後者で世界が分断されており(遊ぶ時は一緒なんだけど)、自分も一応その前者にいるつもりだった。実際成績は良かったが、人間関係や運動、図画工作は優れなかった。って書いてみると本当に勉強しか出来なかったんだな。あの頃は。

 

 読書感想文は、記憶の限りだと毎年夏に課された。そして優秀な作品を書いた生徒は夏休み明けに表彰された。 自分の同級生の一部のエリートは卒業するまでには一度は(読書感想文以外でも)表彰されていた。当然自分もそうなると思っていたし、疑わなかった。

 

 だから、興味もないマザーテレサの伝記を読んでは感動したような文章を書くなどそれなりの対処はしたし、所詮公立の小学校教育はそういった題材のものを好む、という分析まで行っていた。

 

 しかし、5年になっても表彰はされなかった。それよりも、中学受験の塾や公文式に通ってないくせに表彰される同級生の存在が嫌になってきた。

 

 そして6年になった。6年は中学受験の年というのもあって忙しくて対策もできなかった。だから駄作を書いたという自覚はあったが、塾に通ってない頭の悪そうな同級生が表彰されたのには去年と同様の衝撃を受けた。

 

 悔しいというか、何が何だか分からなくなった。将来のために中学受験の塾に通っている自分の方がどう考えてもその子よりは考えてるはずだし、勉強だってできた。なのに、表彰されなかったという事実は学校で起こったことのくせに当時の自分には重くのしかかった。頭は良いという自覚(というか他のことができないコンプレックス)が打ち砕かれたような気がした。でも、そこから抜け出すための努力や方法がわからなかった。

 

 出来の悪い層からしたら、自分に何も無いのを知っていたから発言や行動をバカにしていたし、自分は彼らを見下していたから本当に嫌だったし、そこから抜け出したくて中学受験だって決意したのに、結局ダメだったんだなって。それに限らず、昔からの承認欲求絡めのストレスが溜まっていき、結局勉強ができなくなってしまった。やがて第5志望ぐらいの私立中にしか受からなくかり、そこに入ることになる。

 

***

 

 読書感想文の質と家庭環境の質は関係する傾向がある。例えば読書をするという行為自体親からの遺伝で自主的にする人が多い。あと、家に本があるという状況自体富裕層ならではなのだ。それから、良い文章が書ける小学生は大抵学校とは別の教育機関で技法を習っており、それを活かしている。だから表彰される人はそれなりの教養があったり、もしくは頭の良さに縛られない天性の育ちの良さがあった。当時勉強というか頭の良さに自信があり、かつエリート家庭の出身という自覚があった自分としてはそういうところで認められないと、存在を否定されたのと同義だった。

 

  ちなみに自分の家庭も富裕層で本もあったし両親は読書家だったが他人の人生や思想に一切の興味を示さなかったため自発的には全く読書をしなかった。今はこうやってブログに書くぐらいだから読書量の少なさが原因で最後まで表彰されなかった自覚はあるが、小学生だった当時は気づけなかった。その未熟さが小学生らしいなと、この記事を書いて回想している。

 

 教員が生徒に対して読書感想文の書き方を教えないのは、学校で本来行うべき学術的教育を外の機関に任せていることが原因ではなかろうか。また、先程言った2つの世界の分断を教員は暗に認めていたとも言える。

 

公立小学校は、社会の縮図だ。