潰れた檸檬

自傷しなくても傷だらけ

居場所問題

  居場所について考えたことがありますか。

 

 私は暇な人間なんでそれについて考えない日はありません。むしろ、これを研究するために大学に入ったと言っても過言ではないのだから。

 

 まず言わせてもらうと、今の大学は居場所に感じていない。明日この大学が爆破されたら違う大学に入りなおせばいい。その程度の認識である。なぜなら、あまり進学を希望していたとは言えない大学だからだ。私は今の大学を滑り止め程度にしか思っていなかった。最近帰属意識が芽生えた程度で、好きではない。もし好意的な感情があったなら演劇サークルや落語研究会への入会を「〇〇大学の冠が嫌だ」などと言って断りはしないだろう。というか、ある場所に対して居場所と思うこと自体できなくなった。

 

 居場所感覚の喪失(一部では共同体感覚と呼ばれるらしいが意味が同じ自信がないのでこの表現を用いる)が始まったのは、滑り止めの中学に入ったころからである。

 

 それもそのはずだ。自ら進学を決めたものの、公立から逃れる目的と男子校神話(難関大にうかりやすいなど)で入学したようなものだった。大学の附属校といっても、かえつ有明のような大学と高校の連携があまりないところを想像していた。しかし、そこはどうやら連携を強化していた。端から系列の大学に進学する気がなかった私は余計自分がアウトサイダーの自覚を持つことになった。こうして、六年間その学校を居場所と思うことなく自分はアウトサイダーという自覚の元で過ごすことになる。

 

 別に居場所だと思わないこと自体に罪はない。しかし、居場所に思わないと「俺はアウトサイダーなのだから何をしても問題ない。関係ない。ここがどうなっても構わない。」という思想が生まれがちなのだそう。最近知った。実際、本当にどうでもよかったから人の話は聞かなかったし人間関係を拒んだし暇さえあればフルネームで調べて情報を(教員学生問わず)突き付けて驚かせる遊びをしていた。法に触れていなければOKだと思っていたがこれらはまずいらしい。

 

 若干脱線したが、要は「居場所感覚の欠如の危険性」を説いた。だが、考えてほしい。私はその学校の存在を、受験数日前に知ったし、思った以上に知能と精神年齢が低い人々の集まりだった。そのせいで、入学後苦しい思いをした。そんな苦しい思いをさせた学校を誰が「居場所」だと思う?

 

 居場所は社会から与えられる。しかし、居場所と思うかどうかは個々の感性によって決まる。

 

 思うに、ある場所からある場所に移動する手段をもっと簡略化すればいいのだ。転校のシステムをもっと簡単にすればいい。初見で居場所と思えなかったら、ずっとそこを居場所だと思えないことによってストレスが増幅するだけなのだから。私は、今でも居場所と思えなかったあの学校を中退できなかったことを深く後悔しているし、中退を許してくれなかった親を今でも許さない。そこに関してはね。