潰れた檸檬

自傷しなくても傷だらけ

きょうじゅ

 楽しいってなんだろう。「たのしい」の形容詞自体、楽しい、愉しいなど変換のやり方は一つにとどまらない。私が求めているのは、どっちだ?

 

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 今日は学祭の設営日だった。私のサークルの出店は今年で2回目である。つまり新規なのだ。まあ、非公認だし創立3,4年目だしむしろここまでやってきてることがすごいんだけどね。  

 

 先輩達が去年の回想に浸る。楽しかったと。でも僕自身は楽しかったというより苦労の方が大きかった。出版するのに徹夜で書き上げ、更にはインタビュイー(元フォロワー)がTwitterで晒されて炎上したため急遽書き直ししたり...など散々であった。そして、完成した冊子をインタビュイーに最後まで渡すことができないまま終わった。

 

 だから、去年の時点では楽しいという感情よりも疲れたの感情の方が勝ってしまった。ネガキャンする意図はないのだが、それもちゃんと話した。個人的には家から大学が遠いから自分の仕事をさっさと終わらせて帰りたかったが、雰囲気的にそういう訳にもいかない感じだったので少し当たってしまった。それは私にとっては結構申し訳なく感じているが、彼らは特に気にしてなさそう。本当は今年も予定していた企画がままならないからやめる予定でいたのだが、反対の声が上がったため結局やることになった。仕事の殆どは私が持った。別にそんなことではカリカリしない。やるならやるでやります。

 

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 楽しむという才能がないのだ。

 

 今日は準備日だから飾り付けも行った。正直帰りたかったが、さすがに装飾ゼロはまずいとの意見があった。それと装飾も何もかも興味がなかったが、好きな人がいたので委託した。もしくはやりたくない仕事を私の機嫌を損ねないようにして楽しいからやりたいと言ったのかもしれない。また黒板に絵や文字をかいた。そして装飾を手伝った人や黒板に書いた人は揃ってこう言った。「この時(準備)が一番楽しい」

 

 否定はしない。でも理解ができなかった。

 

 装飾もお絵描きも、私にとっては「労働」に換算されてしまう。美的感覚が失われているのだ。楽しいの本質を見失っていたのだ。人それぞれで良いのかもしれないが、膨大な時間をゴミみたいに扱って浪費しているような気がしたのだ。装飾もお絵描きも、どうやったら楽しいと感じられるのか。エンジョイできるのか。そしてその楽しみをどうやって教わって知るのかが全くわからない。楽しむってなんだろう。他の先輩はピアノ弾いてる時が楽しいらしい。ピアノも前の記事(http://dangosakashita.hatenablog.com/entry/2017/11/27/163014)でも書いたが楽しくなくてやめた。

 

 ひょっとしたら、楽しくないことを楽しくしようとしている節なのかもしれない。そういう映画がある。こないだ見たフランス映画の「オルエットの方へ」がそうだ。簡単に言えば3人の仲良し女性がオルエットという街にバカンスに行ったにも関わらず散々な目にあったけれども「オルエット!!!」の響きだけでで気を紛らわせて、もしくは本当に楽しくて叫ぶという内容である。私はそういう状況だったら不機嫌になってスタスタ帰るのだがそれをしないだけ根性があるのかそれとも本当に絶望したかのどちらか。

 

 楽しめる人は器用だ。不器用だからいつもいつも楽しむ前の準備や下段階で諦めてしまう。だから思った。楽しいは才能なんですよ。長く続けても楽しめない人もいるし、少ししかやってないのに楽しめる人もいる。楽しめる人になりたいものだが、その潜在的な才能が欠けてることを認識させられたのでした。だから、私に楽しさを教えてほしいし、私もできれば楽しさを教えたい。どちらかと言えば面白さを伝える方が得意だから、その時はよろしくお願いします。と言っても、楽しさも面白さも人それぞれなんだけどね。